tabinokilog

ふじょしの渡世日記。主に旅の記録です。

移動:空港からホテル

 

 

 空港を出ると、夜空が雪にかすんでいた。まっ白くて軽い粉雪が、暗い空の奥ふかくからざあっと、一面にふりそそいでいた。降りはじめたばかりらしく、地面や建造物やそこかしこに、まっさらな雪が薄く積もっている。

 その上へ足跡をつけながら、人の背を追って歩く。背の高い人の、迷いのない足取りを、私たちもできるだけきびきびと追う。ダークスーツの上へ腰までのコートだけをはおった、エレガントな後ろ姿。ロシア人らしい、色の薄い金髪が、街灯の明かりにさっと光った。

 その人は黒いBMWの中へ私たちを案内した。エンジンをかけると、運転席の計器類がふわりと発光し、音楽がはじまった。発進。空港の近くは、どこも似たような景色をしている。窓ガラスについた粉雪が溶けて水になり、流れずにとどまっている。街路の光を受けて一面のスワロフスキーみたいに光る。

 ホテルまでは40分か、50分かかる、と運転手が言った。抑揚のすくないなめらかな英語だ。彼の細い鼻梁や、きっちりと後ろへなでつけられた金髪と、とてもよく似合う喋りかただった。(後からわかることだけれど、ロシアの人の喋りかたは、平均的に平板だ。飛び出したり、めくれあがったり、一旦ぶうっとふくらんでからねじれたり、しない。そのぶん文章の力点がどこにあるかわかりにくく、ときどき変な聞き違いをしてしまうけれど、聞いていると、凍りついた湖面が地平線まで続くのを見るような、不思議と凪いだ気分になる。)

 市街は空港の北にあり、進むにつれ人出が増えてきた。ホテルの面しているまっすぐな大通り、ネフスキー・プロスペクトを、東から西へ突き進む。歩道は人々でごった返している。金曜日の夜なのだ。……真っ赤なウールのコートを着た妙齢の女性が、泣きながら車道へ手を突き出している。タクシーを止めたいのかもしれない。……ホテルの入り口近くへ数人の若者がたむろしている。けぶるような濃いまつげをきれいにカールさせた女性が、黒いラメ入りのミニスカートをはき、白い長い脚を見せびらかしている。分厚いコートを着込んだドアマンがその脚をものすごく凝視している。

 サンクトペテルブルクは街を挙げてライトアップされていた。バロックロココや、ときどきギリシャ様式の壮麗な建物が、壁一面に揃いの明かりをともして金色に輝いている。街灯と街灯のあいだへ横断幕のごとくわたされたイルミネーションは街路ごとにデザインを競っている。透徹した美意識で強権的にプロデュースされた街。こういう街の作られる時代は、もう来ないだろうな、と思う。

 街並みに溺れるようにしてホテルへ着く。ホテルロビーは広大だ。ただでさえ高い天井高を二階分ぶち抜いて吹き抜けにし、中二階の回廊からあでやかな大階段を下ろしている。階段の優美なアーチ以外はごく直線的にできており、ベージュと黒をベースにさまざまな差し色が詰め込まれているのだけれど、どうしてかおさまりがいい。シンプルで過剰で、洗練されている。しかし、空港までの道のりで見せつけられてきた街並みの、贅を尽くした壮麗さに比べると、いささかヌーベル・キュイジーヌ的粗食の感がある。美でもってこの街に伍していくのは大変だろう。

 サンクトペテルブルクの有無を言わさぬ美しさは、その成り立ちと実によくはまる。もともとは辺鄙な沼地でしかなかったこの土地へ、ピョートル大帝がひとつの街を作らせた。彼の見たパリやヴェネツィアが、街のデザインを形づくる豊かな源泉となった。美しい街と海洋国家への夢が北の土地へ花ひらいて人々に過酷な建築作業を課した。一万人とも言われる人々がそのために亡くなった。犠牲の血をたっぷりと吸い込んだ、豊かで残酷な都市。

 大階段のふもとにレセプションがある。チェックインの途中、二階のボールルームで催されていたパーティがはねたらしく、ピンヒールの靴音が視線を引く。振り向くと、真っ赤なミニドレスを着た女性が、正装の男性たちを引き連れ、大階段を下りてくるところだった。なめらかにウェーブした金髪。体の線のぴったりと出るドレス。ルージュとドレスの赤色に目を奪われる。

 そのとき、タクシーの窓から見た女性の、黒いラメ入りのミニスカートが、ふと脳裏をよぎった。薄着というのは、この街では贅なのだ。二重のコートでぴちぴちと着ぶくれた私はあらためて、迎えにきたドライバーの優雅さを思い知った。

 チェックインを終えるとウェルカムシャンパンが手渡された。ポーターが私たちの荷物を持って部屋へ向かった。私たちはちっともエレガントでなく着ぶくれて、フルートグラスだけを手に広大なロビーを横切った。サンクトペテルブルク。地球上で最も抽象的な作為的都市。ドストエフスキーの一節が頭を過ぎる。自分の足ですすんでいるはずなのに、乗り物へ乗せられているような気がする。この街のルールが私たちを運び始める。