tabinokilog

ふじょしの渡世日記。主に旅の記録です。

いつかクリスマスマーケットでホットワインを

 

  

 

 店を出ると冷たい風が身体をつつんだ。氷点下の夜だ。街は氷の粒を散らしたように光っている。

 とてもいい気分だった。ウォッカシャンパンの酔いが身体をあたため、口には焼きりんごの甘い味がのこっていた。このままホテルへ戻るのがなんとなく惜しかった。遠回りして散歩をしようと提案する。連れも二つ返事である。山盛りの風船を背負ったみたいに昂揚した気分で、ネフスキー・プロスペクトを西へ進む。

 途中、ジェドマロースたちに出会う。ロシア用の特別なサンタクロースだ。ジェドマロースはクリスマス・デコレーションのされたバスへ10人ばかり搭載され、ときおりざらりと歩道へ撒き出されては、歌ったり踊ったりしてひとびとの笑顔をさそった。ふだん着の青年が運転席に座り、ひとびとの様子を動画に撮っていた。

 とてもいい気分だった。どこから来て、どこへ行くのか、はっきり分かっていた。所与と能動がぴったりと一致していた。夢の中にだけあるような是非のない確信が私たちの行き先を決めていた。わたしたちはキャビア・バーから来て、ネフスキー・プロスペクトを通り、そして夜のクリスマス・マーケットへ向かうのだ。

 露天のいっぱい出ているアーケードを通りすぎ、金属探知機の(おそらくは人数をカウントしているだけの)ゲートをくぐって、広場へ入る。広場の中心には巨大なツリーが立っている。そのてっぺんから、LED製のリボンが幾筋も伸び、サーカスの天幕みたいに広場を覆っている。天幕の外の、出店をひやかして歩く。蜂蜜やサラミの類、木彫りのおみやげ品、ドイツやトルコ風の屋台が、次々に視界へあらわれる。マーケットはもうじき閉まるようで、どこか弛緩した空気がただよっている。連れは、ひときわ混んだ屋台のお菓子に目をつけた。

 長い列になるようで、あいだにホットワインを買いに出た。店の目星はつけてあった。花柄のスカーフをかぶった老女が、サモワールの中へホットワインを入れて売っているのだ。すばらしくロシアらしい。

 店の前へ立つと、老女は色のうすい目で私を見た。ドーブリーヴィーチェル、こんばんは、と挨拶をする。ワインをください。ふたつ、と言おうとして、ロシア語の2、が頭からすっぽ抜けているのに気がついた。付け焼き刃だから、そんなこともある。ヴィノー、パジャールスタ。アディン、アディン、1、1、と手で示すけれど、老女はカップをひとつだけ持って、ひとつか、というようなそぶりをしている。ニエット。いいえ。

 そのとき、天啓のように言葉が降ってきた。要は思い出しただけなのだが、私には光すら伴っているように感じられた。私はクリスマス・マーケットの中心でドゥヴァー! と叫んだ(控えめに)。ドゥヴァー、パジャールスタ。斯くして、300ルーブルと引き換えに、紙コップふたつぶんのホットワインが手にはいった。スパシーバ。スパシーバ。スパコイノイ、ノーチェ。

 空気は澄んで、よく冷えていた。友人は屋台の前で、自分のたのんだお菓子ができるのを待っていた。平打ちに伸ばしたパン生地を軸の上へ巻きつけて砂糖をまぶし、専用の器具へさしこんで、ローストチキンみたいにくるくるまわしながら焼くお菓子だ。サイズの小さいほうをたのんだところ、作りおきがなくて、時間がかかっていた。みんな大きいほうを頼むのだ。そういえば、ホットワインの値段表にも、いちばん大きいのは500ml、と書いてあったっけ。

 ホットワインをひとくち飲む。パン生地がするすると伸ばされ、巻きつけられ、じゃりじゃりした砂糖をまとって、回転をはじめる。くるくるとまわるうちにきつね色に焼けてくる。眺めていると飽きなかった。

 焼きあがったお菓子を手に出口へむかう。ひとくちかじらせてもらうと、お祭りの味がした。ホットワインを飲む。スパイスがふわりと香る。それから甘い、ジャムのようなにおい。暗い紫色の水面へ街の明かりがちらちらと映った。ホテルへ戻るのだ、と思った。まるで夢の中にいるみたいにはっきりしていた。そこには一片の疑いも、ためらいも、確信すらなかった。私は実に本物の道を踏んでいた。それはすばらしいリードを得て踊るようなことだった。ため息が出た。長い夜と壮麗な建築と可憐なイルミネーションの全部が白い大きな息に一瞬だけけぶり、それからまたもとの輪郭を取りもどした。