tabinokilog

ふじょしの渡世日記。主に旅の記録です。

揺れる

 

 

 ひがし茶屋街のすぐそばに川がある。目当ての寿司屋が開くまで散歩でもしようと、川沿いの遊歩道に続く階段を上っていると、なにやら靄のようなものが見えてきた。羽虫の群れである。東京で見るような頼りない蚊柱とはスケールが違う。人間を三人は包み込めそうな蚊柱が、ぼわあっと立ちのぼっているのである。ひとつではない。ふたつ、みっつ……。はぐれてくる羽虫だけでも、虫の嫌いな人なら悲鳴をあげる量だ。
 虫の得意な方ではないが、ふしぎなもので、ここまでの量を目にしてしまうと、もはや諦めの念がわいてくる。青い水面と紅葉を眺めながら、おそらく何匹かの羽虫を髪の毛へもぐりこませて、上流に向かって歩く。
 途中、渡った橋の欄干に、蜘蛛の巣がいくつか張っていた。案の定、羽虫は潤沢にひっかかり、風が吹くたびにぴらぴらと揺れている。どの巣にも蜘蛛の姿はない。食事どきに戻ってきて、端から食べてゆくのだろうか。格好の狩場のようだが、昼間には人間が巣をはらうから、夜まで食事を待たなければならないし、巣も頻繁に張り直す必要がある。骨の折れる狩場でもあるだろう。
 そう上手い話はないものだ、と考えながら寿司屋へ行き、人間の幸福を心ゆくまで味わった。

 

 

 21世紀美術館で、「スケールス」という展示を見た。全部で6つの展示室があり、どの部屋でも豊かな気分を味わえるが、中でも「階段」が気に入った。
(ス・ドホ「階段」 http://jmapps.ne.jp/kanazawa21/det.html?data_id=232
 赤い、チュールのような半透明の布地を面とし、かがり糸を辺として作られた、細い、宙に浮かぶ階段である。小さな電灯やスイッチまで丹念に作られている。
 布とかがり糸で作られた線はうらうらと揺れ、でこぼこのある紙へ赤鉛筆で描いた絵のようである。スケッチの中を三次元的に探検するような、愛おしい展示だった。

 

 

 金沢に着いて一時間ほど、関東の知らない街(たとえば越谷とか)を歩いているような気がして困った。頭の中に日本地図を思い浮かべ、グーグルマップの黄色い人を関東あたりへ持ち上げ、つまんで移動させ、ひゅうう、と金沢に落とす想像をする。目を開く。……それでもやっぱり、遠くへ来たという気がしない。
 しないながら、ずんずんと歩く。紅葉の盛りを少し過ぎた頃で、木々は赤や黄色に景気よく染まり、気前よく葉を落としている。遠足だろうか、子どもたちの一団が道を歩いている。少し遅れて歩く男の子が、自分の頭ほどもあるモミジバフウの落ち葉をぷらぷらと揺らしている。
 それにしても、いい天気だった。気温としてはじゅうぶん寒いのだが、日差しが強くて、今は上着を脱ぎたくなるほどだ。お堀も青空を映して真っ青に染まっている。堀の先には金沢城公園があり、もくもくと茂った木々が華やかに色づいている。子どもたちの群れを追い越したあと、見渡す限り人の姿がない。人のいない景色って夢みたいだと思う。見たことはないけれど、天国みたいだな、とも思う。
 ふと思いついてマスクをずらすと、清冽な空気が喉を通りぬけた。そうすると「遠いところへ来た」という実感がいっぺんにわいてきた。天国のように見えていた木々の群れの、その下を歩きたいと思った。
 交差点へさしかかると、さすがにちらほらと人の姿がある。マスクを引き上げながら、その土地の空気を吸うことも旅の一部だったのだ、と感じる。