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ふじょしの渡世日記。主に旅の記録です。

最後の光線

 


 金沢21世紀美術館に、「雲を測る男」というブロンズ像がある。小ぶりな脚立の上へ立った男が、1メートルほどの定規を空へあてがうように掲げている、という姿だ。
 像は美術館の屋根の上へ据えられており、私たちはふと顔を上げたおりに、彼を発見することになる。たぶん、ちょっとしたおかしみを感じるはずだ。どこまでも高い空を前に、像はやきもきするほどちっぽけで、定規はつまようじのように頼りない。かと思うと、心の奥の方から、厳粛な気持ちがじわっとわいてくる。決して笑われるべきものではないのだ。空へ向かってめいっぱいに伸ばされた背筋や、空へ注がれているだろう真剣なまなざしから、そのことが伝わってくる。

 

 旅は徒歩に尽きる、と思っている。
 バスもいい。鈍行列車もいい。新幹線や飛行機は、まあ、便利なので使うけれど、お金と時間に制限がないのなら、周りの景色を目で追える程度の速度で移動したい。徒歩は一番遅いし、好きな時に立ち止まれるから好きだ。
 それで、目的地に着くと、とにかく歩きまわる。バチッとよそゆきの顔をした観光地より、民家や神社や、飲食店のメニューやのぼり、スーパーマーケットの生鮮食品売り場を眺めている方が、どうしてか、旅をしているなという気がする。
 年を取るごとに貧乏性になってきて、旅先でゆっくりしていられない。主要な観光地はちらっとでも見ておきたいし、美術館にも行きたい、飲食店もまわりたい。そうすると、体力の続く限り歩く、ということになる。
 疲れきった足をなだめすかしてホテルへ戻るのはそれなりにみじめな体験である。敗走の感すらある。もっと余裕のある過ごし方をしていれば見逃さなかったものもあるだろうと、そう思われてくる。
 一方で、言い訳のように、どんなものに出会ったかというのは旅の一面に過ぎない、とも考える。私を朝早くに叩き起こし、何時間も歩きまわらせているのは、きっとお寿司の美味さでも、九谷焼でも、21世紀美術館でもない。両目に映る景色から、地面を踏む振動からしみこんでくる、漠然とした街の実感のようなもの。それは、旅の中にしか得られない栄養だ。
 定規をかかげて雲を測るように、自前の足と歩幅というスケールを見知らぬ街へ当てがうのが、旅ということなのかもしれない。

 

 最終日、内灘海岸を訪れた。夕日を見るためだ。
 個人的なことで恐縮だが、2月に旅行へ行ったおり、ある家族と知り合った。これから海辺の街へ行くところで、よければ一緒に行かないかと誘ってもらったのだが、結局断ってしまった。私は人付き合いが苦手だし、前日までの強行軍でくたびれてもいた。一方で、残念だなと思ってもいた。彼らの行き先は西側を海に面した街だった。きっときれいな夕日が見えたはずだ。関東在住の私にとって、海に沈む夕日というのは、なかなか見る機会がない。
 そのことが頭にひっかかっていて、海へ行きたくなった。金沢駅から最寄りの内灘駅まで北陸鉄道で15分、駅から海岸まで歩いて15分。
 自動改札機はICカード専用で、買った切符を見せながらホームへ入り、電車に乗った。二両編成だ。ロングシートには制服姿の子どもや、買い物袋をふくらませた老人がぽつぽつと座っている。
 座ると、程なく列車は走り出した。上下にぽんぽんと揺れる面白い乗り心地の列車だが、子どもたちは慣れたもので、通学用のリュックに頭をもたせて眠っている。私もリュックへあごを乗せてうとうとする。ときどき目を開けると、小さな田んぼや家々の姿が、窓の外へ現れては消える。
 駅から海までのまっすぐな道を、ゆるやかにのぼってくだる。足を踏み出すたび、疲れているな、と思う。朝、かけた覚えのないアラームが鳴って寝不足だし、もう三時間は歩いている上、昼食を食べそこねている。こんな状態で海を見たところで、無感動に行き過ぎていくだけではないのかと思う。どうして歩いているんだろう、と思う。金沢駅の近くでソファのあるカフェにでも入って、体力を養って、それから昨日見つけた美味しいお店を再訪して、確実にうまいものを食べ、素直に酔っ払って帰途につく。そういう選択肢もあったはずだ。
 まっすぐな道の向こうに青い海が少しばかり見えた。海岸と街の間にある高架の自動車道が視界を遮っているのだ。太陽は高い。高架の向こうへいくためにトンネルをくぐろうとすると、入り口に工事中のフェンスが立てられていた。砂が住宅地へ入り込まないようにするための工事、とある。そういえば道端に砂だまりがあって、ひょろひょろした植物が生えていたな、と思い出す。海水浴のシーズンでもないから、工事にはいい時期なのだろう。
 仕方なく来た道を引き返し、また別のトンネルを目指す。リュックサックと背中のあいだに熱がたまって暑い。機械的に歩く。そのトンネルは海につながっているのかどうか、まだわからない。

 

 観光地のスタンプラリーみたいな旅行を、小さな頃から馬鹿にしていた。
 バスに詰め込まれて長いこと移動をし、たった数十分、混みあった観光地に放牧されては収集され、しまいには建造物を車窓から見学させられることに、どんな喜びがあるのだろうと疑問だった。お仕着せのレストランや土産物屋をしか訪れることができないなら、自宅でガイドブックを読んでいる方がまだましだ。
 ひとつの気に入った土地に長く過ごし、好きなだけ眠り、美味しいものを食べ、気に入りの散歩道を作り、他愛のない発見をし、その街へ親しむことが、旅の本質だと思っていた。
 30才を越した頃からだろうか、私の旅は、そのような優雅さをじわじわと失っている。ガイドブックをひらき、トリップアドバイザーで旅行記を読みあさり、地図の上へ点を打ってスケジュールを組む。朝早く起き、スケジュールをタスクリストみたいに消化していく。美術館や観光地の脇を見ないまま通り過ぎるときには、ほとんど恐怖のような感覚がある。
 なぜか。
 見当はついている。艶を失っていく髪や、たるんでいく肌や、さまざまな老いの気配が、私に教えてくるからだ。
 人生は無限ではない。
 今、見なかったものを、たぶん見ないまま死んでいく。

 

 たどりついたトンネルは運良く開いていた。トンネルを抜けると砂浜があって、しかし海まではまだ遠かった。見たこともないほど広い砂浜だった。足跡はほとんどない。そのかわり、太いタイヤの跡が縦横無尽に走っている。
 見回すと、トンネルのわきへ「人のいる場所で危険な運転をしてはいけない」という趣旨の看板が立っていた。丘陵へ無理やり乗り上げたような、太いタイヤの跡も見られる。そういう遊びの場所になっているのだろう。それが理由かはわからないが、見渡す限り、人の姿がない。一瞬、四輪駆動の車に追われて砂浜でスッ転ぶ自分の姿が思い浮かぶ。
 しかしまあ、今のところは車の気配もない。波打ち際まで歩き、リュックを下ろして、道すがら買ったパンを食べる。そのあと本を読んで日が沈むのを待つ。ときどき視線を上げて海の青さに目を休め、太陽の高さを確かめる。絵面としては優雅だが、眠いし、疲れていて、ぼんやりして、なかなか内容が頭に入らない。いっそ砂の上へ仰向けになって眠りたいくらいだ。
 日没まであと一時間というところで、一台の車が砂浜へ乗り入れてきた。続けて、もう一台。離れた場所へ止まる。夕日を見に来たのだろうとは思うが、私の頭には看板の注意書きと、足元から数十センチのところにあるタイヤ痕のことが浮かんでいる。また、四輪駆動車に追われてスッ転ぶ自分の姿を思い浮かべる。波打ち際にべったりと転んで、冷たい海水が濡れた体の下をざああっと引いていく感触を想像する。日の高いときよりも寒くなってきて、空想が余計ミゼラブルになる。
 一旦、砂浜を後にして、近くのスーパーで買い物をした。それからトンネルの入り口に戻ってそーっと砂浜を覗いた。車はどれも西を向いて、点々と浜に停車している。曲乗りは始まっていない。ようやくほっとして、しかし念には念を入れて、広い砂浜の、出口へ近い方へ腰を下ろす。そうしていると、自分の矮小さに笑えてくる。
 旅というのが自分の歩幅で街を測ることだとすれば、しかし街の方も、彼らのスケールで私を測ってくる。どのトンネルが浜へつながるのか、夕方にこの浜へ座っていても安全なのか、私にはわからない。慣れや効率から離れた身ひとつの自分の大きさが、ほとんどの場合は小ささとして、はっきりと暴かれる。そうして身ひとつになった自分と協議を重ねながら先へ進む。目に入るものを眺め、歩ける限りの道を歩き、眠って起きてまた見ることを繰り返す。

 

 夕焼け空。
 赤く溶けたガラスのような太陽を中心に、とき色から金色へとうつり変わっていく光が、だんだんに薄まり、やがて空の青と混じりあってその色を手放していく。
 夕暮れどきには雲が出ている方がいい。平凡な雲のきれはしに眩い縁取りがつき、紅や金粉を刷かれていくさまは、幸福な物語のひとつの類型のように思える。
 赤い日がしずしずと、不可逆的に落ちていく。海辺の松を、堤防を、眩しく燃焼させながら、ゆっくりと沈んでいく。気が遠くなるほど長い間、ひたひたと繰り返されてきた日暮れのうちのたった一回を、人生のうちのたった二時間だけこの海岸を訪れた矮小な私が見ている。
 太陽の最後の光線が地平線の向こうへ消える。
 思わず、おーい、と声をかけたくなる。
 でももう会うことはないだろう。

 

 砂浜から立ち上がってふと、両足に違和感があった。
 痛くないのである。
 痛い、のではなく、痛くない。
 くたびれきっていたはずの両足が、温泉につかったあとのように温かく、ふっくらとして感じられる。試しに力をこめると、かすかに痛いような心地よい感覚が返る。なぜだろう。砂浜のやわらかさが、いい具合に筋肉を休ませてくれたのだろうか。それともまさか、これがランナーズ・ハイというものだろうか。歩きまわって疲れたというだけで、私の脳はエンドルフィンを分泌してくれたのだろうか。
 何にせよ、ありがたい変化だった。これから駅まで上り道を歩くのだ。ふしぎな再生を経た足で砂浜を出て、なんだか励まされたような気分になる。またこういう、歩いて歩いて歩き潰すような旅に出るだろうなと思う。そうして海を振り返り、振り返り、出ていく。深い紺色をした夜のとばりが、姿のない太陽を追いかけるように下りていくのを見る。