tabinokilog

ふじょしの渡世日記。主に旅の記録です。

うpした後どうでもよくなってしまう問題

 

 

 うpした後、どうでもよくなってしまうのである。

 

 不真面目な二次創作とはいえ、書いて見せる、ということを一応の習慣にしている。書き上がるとpixivへ載せる。あるいは印刷して薄い本にする。別に書きっぱなしにしたっていいのだが、そうしないともったいないような気もする。

 遅筆の私にとって、たとえ一万字でも二万字でも、書いて書き終えるというのは相当に労力のかかることだ(この分量を書くのに90分かかっている)。書き続けるには情熱が要る。「どうでもよくない」と思って取り組むから、どうにかこうにか書き上がるのだ。

 それを人目に触れるものにした瞬間、しかし、今までかけていた情熱がふっとどこかへ行ってしまう。熱意を持って書き、直し、削ってきたはずの話が、三つで78円の充填豆腐のうちのひとパック、くらいなものにしか感じられなくなる。人目につくところに置いているから、好悪それぞれの反応があるのだが、それを正しい感激や悲しみでもって受け止めることもできない。どうでもよくなってしまうのである。このどうでもよさは、私の場合、出来上がった瞬間にピークを迎える。

 

 書いたあと内容を忘れてしまう、愛着を失う、というのは、小説家のエッセイの中にもよく見る話だ。その物語へしがみつくために使っていた握力が、手の中から送り出した途端にいきなり消え失せてしまう。書いて見せる、というフローの終わり近くにそういう穴がある。「構想を話すと書き上げられなくなる」というのも、きっと似たような穴に落ちているのだろう。

 それはヨットをつくって海へ浮かべることに似ている。自前のドックに資材を運び込み、船底をつくり、船室をつくり、マストを立て、舵をとりつける。帆を織って張る。名前をつける。ドックには作りかけのヨットがごろごろしているが、それほど多くはない。どれも愛着のある形だ。

 いよいよドックの扉をひらき、完成したヨットを光さす大洋へ押し出す。すると突然、どうしたことか、なんの変哲もないヨットを送り出してしまったことに気がつく。なぜだろう、とあたりを見回せば、海上にはさまざまなヨットが並んでいる。あれと並列されたからだろうか、と思い至る。

 ヨットはそれこそいくらでもある。私のヨットがあろうとなかろうと、どんな形をしていようと、本質的にはどうでもいいのだなということが、まぶしい光の下に可視化されている。自分だけのドックを出て初めて、そのことが肌身にしみる。

 物語なんて本質的にはどうでもいいものですよね、という極論をぶっているわけではない。そのヨットを自分だけのドックのような場所へ迎え入れる役割は、たぶん読む人へ移るのだと思う。大きく開けたスペースへ見知らぬ物語を迎え入れ、それそのものの美しさや、あるいはそれによって立てられた波や風を感じることの喜びは、ドックの中にあった情熱と対になるものだ。

 

 そうやってヨットを送り出したあと、私の頭にはヘリウムガスのようなものが満ちている。本質的どうでもよさという比重の軽いガスだ。私はしばらく書かないでいる自由を味わい、ふと見つけた資材を、ごく気楽にドックへと運び込む。船底をつくり、船室をつくり、マストを立て、舵をとりつける。帆を織って張る。

 その頃にはもう、どうでもいい、などと思うことはできない。この話はどうなりたいのか、どうなるべきなのか、何を語ろうとしているのか、目をかっぴらいて取っ組み合い、ささくれを削り、素材をさしかえ、舳先のかざりをさまざまに取り替えてみる。(もちろんそうしたからっていいヨットができるわけではない、悲しいことですが……。)

 ともかく完成した話をpixivへ載せる。あるいは印刷して薄い本にする。ヨットは光さす大洋へとこぎだしていく。その途端、またしても、本質的どうでもよさが巨大な波のようにやってきて体を押し流していく。うすぐらい部屋の隅で体育座りをして、消しゴムやら何やらを壁へ向かって投げつけたいような気分になる。

 うpした後どうでもよくなってしまうのだが、どうしてか書いて見せることを止められずにいる。ふしぎなことだと思う。